この本は、物事には順番があるということを教えてくれる。
事が成されるとき、登場する人間にも順序があり、
それぞれの能力・キャラクターと
出番の組み合わせがぴったりと合ったとき、いい仕事がなされる。
もっと言えば、自然の摂理に逆らわず、
物事を合理的に進めていけば、
ジグソーパズルの欠けた部分にぴったりのピースがはまるように、
求める人間が、求められる場所に現れる、
というように世の中はなっているらしい。
適材適所とよくいう。
これは各仕事にふさわしい人を配置することを言うが、
現実の世の中は日々変化しているから、
時間軸による変化をこれに加える必要がある。
「適材適所」プラス「適材適時」である。
求められるときに、
求められる人間が、
求められる場所に現れるのだ。
そして、求められなくなったら去る。
革命のような大きな事業が成立する過程を見ていくと、
この意味がよくわかる。
明治維新がどのような役者たちによって成立したか見てみる。
最初は何もない。
誰もいない。
人々の潜在意識の中に漠然とした不満とか不安があるだけである。
「生活が苦しい」
「息苦しい」
「閉塞感がある」などとは思っていても、
世の中が変わるとは夢にも思ってない。
そんなときに、こんな考え方がある、
こうなるべきだという思想を構築し、
それを人々に伝える人間が出てくる。
その役割を担った代表が吉田松陰であろう。
松陰は過激な思想家、教育者に徹することによって、
その役割をまっとうした。
次にやや気運が盛り上がってきた段階で
桂小五郎、高杉晋作、坂本龍馬などが登場し、
尊皇攘夷から討幕へと、思想と気運をさらに発展させる。
この頃活躍した志士たちは、
大きな岩を最初に動かすきっかけをつくる役割を担っている。
そのためには人々を扇動する必要がある。
扇動するには将来のことを目に見えるように話す
(ビジョンを示す)
能力が求められる。
また少々破天荒な破壊者としての能力、
構想・計略、仲介・斡旋といった能力も求められるだろう。
事業家でいえば、創業経営者的能力である。
さらに人々を新しい方向へ引っ張っていくには、
人間的な魅力が必要だ。
現在の経営者でいえば
孫正義。
IT革命の先頭を切り開いた彼の最も際立った才能の一つは
扇動家としての能力である。
口から泡を飛ばし
説得力ある言葉で情熱的に語るその話を聞けば
誰もが「そうか!」と思ってしまう。
まるで魔法のように、人を動かす。
話を維新に戻す。
そういう中で巨大なカリスマ性をもった西郷隆盛が現れる。
こうして革命の気運が盛り上がり、機が熟し、
いよいよ幕府と真っ向から戦いを始める段階になると、
今度は仕事を実際に遂行する技術・知識を持った人間が登場する。
それが「花神」の主人公、村田蔵六(大村益次郎)である。
技術力で事を成したら、後は成立した仕組みを運営し、
その果実をとる人間が出てくる。
明治政府の権力者となった山県有朋、
伊藤博文といった人間がその役割を担った。
つまり大きな仕事が成されるとき
1思想家、扇動家2技術者3運営者──の順番で、
役回りが変化していくのだ。
この流れは時間とともに進んでいくから、
その時の役者の年齢も重要な要素になってくる。
明治維新の場合はそれぞれの段階で、
十年間ぐらいの広がりがある。
そうした時代の流れの中で、その人の才能やキャラクター、
年齢などがぴったりはまったとき、
その人物は水を得た魚のように活躍する。
そして、場面が次の段階に移ったとき、舞台から去っていく。
現実も時間を圧縮して見れば、
シェイクスピア劇の舞台のようである。
なかには一人で二役こなせる人間もいる。
大久保利通は革命の初期は、扇動者、破壊者として活躍したが、
革命成功後は新政府の構築に能力を発揮した。
しかし、革命成立十年後に暗殺されてしまったことを考えれば、
やはりどこかに無理があったように思える。
事業の規模が大きくなればなるほど、それは難しくなる。
何でもかんでもできなくていい。
一番得意なことを渾身の力を込めてやれればそれでいい。
人々に求められることを一生懸命やれば、それでいいではないか。
村田の生き方は、そう語っているかのようだ。
村田蔵六は長州・周防の村医から一転して
討幕軍の総司令官となった人間で、
日本の近代兵制の創始者とも言われている。
普通では考えられない出世をし、
その代償として波瀾の生涯を送った。
その過程を見ていくと、仕事と人間の関わりがよくわかる。
次回は、彼の生涯を追っていこう。
●蛇足文
日本の国土は
世界191ヶ国中59位の大きさです。
どう感じますか。
日本は国土的にもそんなに小さな国ではないんですね。
ところが「島国、小さい、狭い」
という声しか聞かない。
この認識も「線路が飴のように曲がっていた」
「真っ赤な太陽」的な
使い古された、形式化したものだということに気づかされます。
日本を小さい国と言うとき、
われわれの頭の中にある国は
アメリカ、中国、ロシア、オーストラリアなどの
世界でも屈指の巨大国です。
それらの国と比べて小さい、小さいと言っているうちに
いつのまにか、本当に、
小人の国にいるかのような錯覚を起こしてしまうわけです。
似たようなことが都市の表現でもよくある。
札幌、仙台、名古屋、福岡といった
日本屈指の大都市でさえ
われわれはなぜか「田舎だから」といった
表現をするのです。
この場合、比較しているのは東京です。
場合によっては大阪ですら
田舎という人がいる。
大阪が田舎だったら、日本に都会は皆無じゃないですか。
客観的に見ると
県庁所在地はほとんど大都市です。
本当の田舎である
村、町から出てきた人は
20万人、30万人の都市に初めて出てきたとき
その大きさに驚愕し、卒倒しそうになります。
そういう現実がある一方で、
名古屋を田舎呼ばわりする論調があったりして
本当に極端な表現が好きな私たちです。
はっきり言って、全部冗談だということが
わかっていればいいのですが
何度も言っているうちに
それが本当のことのように思われてくるので怖いのです。
タグ:花神


司馬先生全冊読破と聞いて、お邪魔しました。
私も完読した者です。
そして、今でも先生の大ファンです!
繰り返し詠み続けていますが、特に『峠』は何度読んでもいいですね。
日本人のルーツとか、渡来人のこととか、その考え方のスケールに感動します。「手掘り」感がまたいいんですよね。
ライターさんなんですね。
私は編集(時になんちゃってライター)しています。
とても嬉しかったので、お気に入りさせていただきます!
コメントありがとうございます。
「峠」は本当に味わい深い小説ですね。
お気に入り、ありがとうございます。
今後ともよろしくお願い致します。