89800円からの自費出版

2007年10月14日

『花神』6

自分の仕事を見つける


その後、蔵六は上野の山にこもった彰義隊を壊滅し、
北越から奥羽に広がった戦乱も、
江戸から指令を発して、ことごとく片づけた。

戊辰戦争がわずか一年で片づいたのは、
蔵六という総司令官がいたからともいえる。

そのやり方がふるっている。

「私がすべてやります」
「これ以外に方法はありません」と、
薩長の幹部の列座する前で悪びれもせずに断言し、
数学の問題を解くようなやり方で、次々と問題を処理していった。

蔵六の活躍がいかに高く評価されたかは、
戊辰戦争後の論功行賞の内容でもわかる。

東山道先鋒軍の総指揮者であった土佐の板垣退助が千石、
長州の山県有朋が六百石、
薩摩藩の代表格である小松帯刀が千石、
土佐藩代表の後藤象二郎が千石である。

長州、薩摩の二大巨頭である木戸孝允と大久保利通がそれぞれ千八百石。
最高額の西郷隆盛が二千石というなかで、
蔵六が拝領したのは千五百石。

薩長の二大巨頭に次ぐ高額であった。

革命に遅れて参加し、こういう扱いを受けたから恨み、
嫉妬などを受けやすい位置にいたことは確かである。

蔵六の暗殺は、海江田が陰で浪士を扇動してやらせたと言われている。

蔵六の一生は忙しい。

明治二年五月に函館・五稜郭の榎本軍が降伏して戊辰戦争が終わると、
その四カ月後の九月に暗殺者に斬られ、十一月に死んでしまう。

明治二年九月、蔵六は京都に行ったところを狙われた。
宿で湯豆腐鍋を囲み何人かで一杯飲んでいたとき、刺客が飛び込んできた。

蔵六はこのとき、右の腿をやられた。

当初は自力で歩けるほど元気だったが、敗血症を併発した。

九月四日に負傷し、十月二日大阪仮病院に入院、同二十七日右大腿部を切断。

十一月五日死去した。

蔵六が偉かったのは、
その周辺からくる雰囲気に飲み込まれず西郷隆盛と対峙し、
自分が正しいと思ったことを断固として行ったことだ。

西郷は革命の立役者であり、人格者としてカリスマ的人気者である。

普通の人間には、これを軽んじることなどできない。

しかし蔵六には、西郷の神通力は通じなかった。

彼はその鋭い直感力で、西郷とその取り巻きの本質を見抜いたのである。

彼らの本質は中世人であり、新しい時代をつくっていく過程で、
今後やっかいな存在になると、十年も前の時点で、
後の西南戦争を予言して、その対策まで実行しているのである。

「いずれ九州のほうから、足利尊氏のごときものがおこってくるだろう」
と蔵六は予言した。

足利尊氏とは西郷隆盛を指しているのである。

そして、軍事上の重要拠点を東京におかず、大阪におくようにした。

九州で反乱が起きた場合、大阪湾から迅速に兵器や物資を直送するためである。

さらに、西郷が反乱を起こしたとき、
それに匹敵する人物が新政府にいないことを憂え、
まだ若かった公家の西園寺公望をかついで、息子のようにかわいがった。

そういう対策をすべてやった後、刺客に襲われ、あっという間に世を去った。
享年四十五歳。

西郷もその九年後に西南戦争に敗れて死ぬから、
この勝負、時間は相前後するが、相打ちであったといえる。


さて、これでこの物語は終わるわけだが、
坂本竜馬や、高杉晋作といった維新の志士たちに比べると、
どうもしっくりこない、わかりにくいと思う人が多いだろう。

司馬氏もそのように思っていたようで、あとがきに次のように書いている。

「村田蔵六などという、どこをどうつかんでいいのか、
たとえばときに人間のなま臭さも掻き消え、
観念だけの存在になってぎょろぎょろと
目だけが光っている人物をどうかけばよいのか、
執筆中、ときどき途方に暮れたこともあった。(中略)
しかしひらきなおって考えれば、
ある仕事にとりつかれた人間というのは、
ナマ身の哀歓など結果からみれば無きにひとしく、
つまり自分自身を機能化して自分がどこかへ失せ、
その死後痕跡としてやっと残るのは仕事ばかりということが多い。

その仕事というのも芸術家の場合ならまだカタチとして残る可能性が多少あるが、
蔵六のように時間的に持続している組織のなかに存在した人間というのは、
その仕事を巨細にふりかえってもどこに
蔵六が存在したかということの見分けがつきにくい。
つまり男というのは大なり小なり蔵六のようなものだと執筆の途中で思ったりした」

蔵六はその才能は別とすれば、
どこにでもいるような平凡な人間であった。
だからそこ、親近感もわく。

司馬氏が言いたかったのは、
男の仕事とは、ということだ。

女性の場合は子供を産み育てるという
大地に根を張った生きる目的のようなものがある。
男の場合は、それが希薄だ。

だからこそ仕事をする。

その仕事とは、多くの場合、組織の中でなされる。
組織の歯車の一つ、積み石の一つであるから、
誰がそれをやったかなどということは、ほとんど記憶されることもない。

しかし、この世に彼がいたことによって歯車は確かに回り、
石は一つ積み上げられた。

その集積でいまがあるし、未来も切り開かれていくのである。

posted by タカノリ at 22:04 | Comment(0) | TrackBack(1) | 花神

2007年06月04日

『花神』 5

神業のような処理能力

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今日というか昨日ですが
面白い話をいろいろ聞きました。

ベートーベンの耳が聞こえなくなったのは
25歳からだそうです。
よって、われわれが知っている彼の名曲は
ほとんどすべて、耳が聞こえなくなってから
つくられたものなのです。

ベートーベンは一時、自殺も考えましたが
自らを鼓舞し、手帳にこう書きました。

「勇気を出せ。たとえ肉体に、いかなる欠点があろうとも、
わが魂は、これに打ち勝たねばならない。25歳、
そうだ、もう25歳になったのだ。今年こそ、
男一匹、ほんものになる覚悟をせねばならない」

困難に直面したとき
それをどう乗り越えるのか。

逃げるのか。諦めるのか。
勇気を振り絞るのか。

その乗り越え方で
その人の人生は決まるのです。

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西郷隆盛が官軍の代表として、
幕府の代表である勝海舟と対面した後の話である。

官軍は江戸城に入城し、革命は第二段階に入っている。
大きな山は越えたが、そこで新たな問題が生じてくる。

海江田信義という人間がいる。
西郷や大久保利通の早くからの仲間で、
革命の功労者として後に子爵となっている。

平時には社会に適応できたか危ぶまれるような人物だったが、
革命の初期にはよく活躍した。
破壊が専門で、構築には適さなかった人物らしい。

西郷は彼を官軍の参謀にしたが、実際にはそんな能力はなかった。
しかし、自分は一番最初から西郷と共に革命に参画して、
ここまでやってきたという自負がある。

組織にとって、扱いが難しい存在なのである。

そういうところに、村田蔵六は総司令官として乗り込んでいって、
海江田などくだらない人間だと断定し、
西郷に対しても俺が命令者だといわんばかりに、
いきなり命令を下すのだから波風が立たないはずがない。

革命政権は寄り合い所帯だから、
どっちが偉いかといったことは曖昧なのである。

はっきりしているのは、蔵六が命令者として上に立った方が、
物事がうまくいくということ。
だから、蔵六はそうした。
それにより、海江田の恨みを買った。

「この男は単なる騒ぎ屋だ。
革命期にはこういう男も必要だったのだ」
と思うままの対応をするから、ますます恨みを買う。

それはそれとして、江戸で蔵六の成したのは、
革命の仕上げである。
西郷などがやり散らかしたことにきっちりけりをつけた。

たとえば官軍は江戸城に入城したものの、
江戸には幕軍の残党である彰義隊が跋扈していた。

西郷は勝におどらされている。
海江田は西郷の使い走りで、
たえず勝とのあいだを往来し、その言いなりになっている。

この癒着関係を絶たないかぎり、
彰義隊の跋扈は制御できないと蔵六は考えた。

江戸を沈静せしめれば天下は沈静すると考え、
勝に対して断固とした処置をとる。

勝と西郷が互いに信頼し合っているのはいいとして、
なれ合いの関係を続けているままでは、
江戸で乱暴・狼藉を働いている人間の始末がうまく進まないからである。

蔵六には私欲はまるでなかった。
正しいと思うことを断固として行い結果を出したから、
基本的にそれを止められる者はいない。

西郷はさすがに人格者だから、
身を低くして「先生」と蔵六のことを呼び、作戦については一任した。

蔵六は夜、城内が静まった時刻から、
前線からの願書や伺い書など百通を超える書類を見た。

それらにざっと目を通すと、直ちに朱筆をとり、
許諾か却下かを書き、その理由を添えた。

処理の早さは「神業のごとし」であった。

昼間は暇で、たいていは碁を打っていた。
相手は誰でもいい。
蔵六は碁を打ちたくなると、ただ碁盤の前に黙って座る。

それを見て、誰かが気の毒に思って蔵六の前に座ると、
彼は無言で黒石を打ち始める。

とびきり下手なので、たいていは蔵六が負ける。
「そんなに弱いのに、なぜ碁を打つのですか」とある人が聞くと、
「心気を休めるためです」と答えた。
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2007年05月27日

『花神』4

才能はその時、その場に突然、現れる
 

蔵六には誰にも負けない知識があり、
かつ軍事総司令官に適した体質をもっていた。

医者が臓器の病んだ部分をばっさりと切り取るような
冷然とした感覚を持ち合わせていた。
軍事にはそういう才能が必要らしい。

たとえば、幕軍が大島に、海から攻めてくるとわかったとき
「大島は捨てます」と、あっさり言った。
全体を見て、局部の疾患は捨てるという判断である。

ただ、戦術的にはそれが正しくても、
人間社会は一筋縄にはいかない。
捨てられる大島の住民はたまったものではないだろう。

蔵六には、そのあたりの気づかいがおよばない面があって、
それが後に人の恨みを買うことになり、
命を落とす原因になるのである。

ともあれ蔵六は、周りの者を畏敬させる特異な才能を持っていた。
それは軍事の才能であり、総司令官の才能だった。

たとえば、幾何学の証明を一瞬にして言い当てる感覚だという。

いくら頭脳が明晰でも、
鉛筆で計算しないと証明できない頭脳では役に立たない。

だから、軍事的才能は古来最も希有なものとされていた。
しかもやっかいなのは、誰がそういう天賦の才能をもっているのか、
皆目わからないことである。

戦争など、めったにあるものでないから
試すこともできない。

才能を持っている人間が軍人とは限らない。
田舎の百姓に生まれた人がそういう才能をもっていて、
自分でもそれに気づくことなく一生を終えているかもしれないのだ。

だから、そういう才能をもった人間を拾い上げた人間、
つまり桂小五郎が偉いといえる。

織田信長はその機微を知っていたから、
滝川一益、羽柴秀吉、明智光秀といった人間を土から拾い上げた。

蔵六の不思議な才能を示すエピソードがある。
人の家を初めて訪ねるとき、地図も見ずに出かけて行く。
そして、迷うこともなく、
ぴったりとその場所を当ててしまうのである。

信じがたい話だが、千人、万人の兵隊の命を預かる立場にある人は、
そのくらい人並みはずれたものを持っていてほしいとも思う。

幕末、四面楚歌状態になった長州藩が、幕府連合軍になぜ勝てたのか。
内情を知れば、当然のように思える。

長州には総司令官の村田蔵六がいて、
行動派の天才高杉晋作がいて、奇兵隊がいたのである。

奇兵隊は最新の様式銃をもち、簡素で動きやすい服装をしている。
しかも、藩の命運をかけた戦いに決死の覚悟で臨んでいる。

これに対して幕府軍はどうか。
まず総司令官の人材がない。
藩の家老が身分が上だからという理由で指揮をとっている。

馬に乗り、先祖代々の兜をかぶり、
ずっしりとした具足を履いて、大汗をかいている。

さらに悪いのは、幕府の命令で嫌々出兵しているのである。
これだけの条件がそろえば、大小の力関係は逆転してしまう。

長州は幕府軍を退けた。
相前後して、高杉晋作が病没し、
蔵六は名実共に長州軍の総大将となった。

その後薩長秘密同盟が成立し、
蔵六は西郷隆盛、大久保利通らと共に
討幕軍の総司令官として活躍することになる。

西郷は人間的魅力の塊として、革命軍の頂点にいる。
一方蔵六こと大村益次郎は能力の塊として、これに対峙する。

この関係がおもしろい。
西郷が明るいカリスマなら、蔵六は暗いカリスマである。

西郷のためなら命も惜しくないという人間は大勢いたが、
蔵六はそういった点ではまったく不人気である。

しかし、いかに西郷でも実際の仕事を進める上では、
蔵六に指揮を仰がなければならないから
「大村先生」と呼んで、身を低くする。

ところが、蔵六は西郷を認めていないから、
いつもの無愛想な態度で対応するばかりなのだ。

自然、西郷の崇拝者に嫌われ、恨まれるような状況になった。
「殺すなら殺せ」というようなところが蔵六にはあった。
自分の命に対してさえ、投げやりというか、
機械のような冷徹な視線を向ける。

他人から見ると得体の知れない、
心の中に深い空洞が空いていると見える。
しかし、それも人間性の一つである。

蔵六の特異な才能はその空洞を埋め合わせるために
獲得されたものに違いないのである。
タグ:花神
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『花神』3

知性を生かす感情というエネルギー
 
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ニュースを見ていると連日
いじめ自殺やら殺人やら
嫌な事件ばかり報道されています。
結局、最も刺激的な事件を
採り上げているからなんでしょうね。
もう少し、流すニュースを考えられないでしょうか。
たくさんある中から何を選ぶか。
選択の問題です。
これはものすごく重要なことだと思います。
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井伊直弼が暗殺された翌々日、
桂は蔵六に対して正式に、長州藩に来てもらいたいと伝えた。
ただし、給料は宇和島藩の半分になり、
馬廻役格という低い身分の待遇になるが、
なんとか来てくれと頼んだ。

「長州に行くことは決めている。待遇などは都合しだいでよい」
と蔵六は答えた。

実際、長州藩が蔵六に示した待遇は、
宇和島藩の三分の一であった。
にも関わらず、長州は蔵六を宇和島藩から引き抜き、
幕府からも引き抜いた。

「わが長州のため」という理由だけで、
強引に誘う桂も桂だが、誘いに乗る蔵六も蔵六である。

蔵六は天才と言われるほど冷徹な頭脳をもっていながら、
「わが国、わが故郷を愛する」
というナショナリズムの強い男だった。
このあたりは、適塾の後輩である福沢諭吉と大きく違う点だ。

共通の師匠である緒方洪庵が死んだとき、蔵六は福沢と会った。

「村田君はなぜ(攘夷に荒れ狂っている)長州藩などに行ったのだろう」と福沢は思っていた。

危ない藩に行ったものだと
他の適塾出身の仲間たちとうわさし合っていた。

適塾出身者は洋学を学んでいるから、
攘夷(外国人を殺せとする)運動の馬鹿さ加減を知っている。

福沢は大先輩の塾頭であった蔵六も当然そうだと思って話しかけた。

「どうだえ、馬関(下関)のあの騒ぎはなにをするつもりか、
気違いどもにかかっちゃ、あきれかえって物がいえないじゃないか」

「なにが気違いだ」蔵六が突然怒った。

福沢は目を丸くして驚いた。
開明主義者の福沢にとって、適塾で最もすぐれた先輩が
攘夷主義になるとは考えられないことであった。

理性的に考えれば福沢が正しい。
しかし、幕末の当時、日本中の人間が福沢のように
訳知りで物わかりがよかったら、明治維新は違うものになったろう。

かえって外国人になめられていたのではないか。

攘夷運動が馬鹿げていたのは事実だが、
それでいて最も過激に攘夷を実行した長州藩が
維新回天の主役になった。

近代洋学を誰よりもよく理解した蔵六が
攘夷を支持した理由もそこにある。

狂気と人が言うところの
理屈では割り切れない部分が歴史を動かす。

簡単に言えば、実に単純。
「なめられてたまるか」という感情である。

感情は合理性を持たないがエネルギーを生み出す。
蔵六の明晰な知性は感情というエネルギーで生かされたのである。

技術者の蔵六もまた、時代の激流に飲み込まれていく。

その過程を見れば、否応なくではなく、
自ら激流の中に飛び込んでいったのだ。

村田蔵六は長州藩士になってからも、
攘夷で荒れ狂う騒然としたなかでしばらく書物に埋もれており、
沈黙していた。
が、いよいよ差し迫った事態になったとき、
歴史のなかに登場してきた。

長州が蛤御門ノ変に敗れ、四カ国連合艦隊に敗れ、
幕府軍が攻め寄せてくるという状況になって、
桂小五郎の推挙で軍務大臣に抜擢されたのだ。

医者としか思われていなかった蔵六を、
桂はなぜ軍務大臣にしたのだろうか。
こんな会話があった。

「幕府と戦って勝てるでしょうか」と桂が聞いた。
「勝てるようにすれば勝てます」と蔵六。
「どうすればいいでしょう」
「施条(しじょう)銃を一万挺そろえれば勝てます」

それだけである。
施条銃とはライフル銃のことで、
旧式のゲベール銃よりはるかに命中率が高かった。

これを一万挺そろえれば勝てると明快に応えることができる人間は、
他にいなかったのだろう。

蔵六は実際にそれを調達しようとしたが、
千挺そろえることもできなかった。

指示した人間が動いてくれない。
それに対して、適切な対応ができなかった。
政治的な人間でないので、そういうことは得意でないのである。

困っていたところに助け船が現れた。
長崎で亀山社中をつくっていた坂本竜馬である。
桂から事情を聞いた坂本は、
「二、三カ月待ってもらえばなんとかなる」と軽く応え、
実際四千挺を調達した。
それぞれが得意な分野で能力を発揮し、
絡み合って大きな力になっていく過程がよくわかる。

まったく無名だった蔵六がいきなり長州の軍務大臣に任命され、
幕軍を退けるのに大活躍したわけだが、
勝海舟が「長州に村田蔵六がいては、とても幕軍に勝ち目はない」
と言った話は広く伝わっている。

勝は蔵六に会ったことはなかったが、
蔵六が訳した兵書を読んで、そう思った。

解釈が正確なのはもとより、
欧米の軍事技術の本質を掘り下げ、
生き生きと活写していることに驚き、
すごい人間がいるものだと
その名前を記憶していたのである。
タグ:花神
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2007年05月16日

『花神』 2

技術者の個性 

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オーストラリアに何年か赴任した人の体験記を読んでいたら
おもしろいことが書いてありました。
現地にすっかりなれて、日本に帰ると
何もかもが小さく、せせこましく
まるで小人の国に来たように感じた、というのです。
巨人国から帰ったガリバーが
故郷のあまりの小ささに困惑し、
出会う人みんなを、踏み付けやしないかとひやひやした
という話と符合して、おもしろかったです。

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村田蔵六(後の大村益次郎)は、長州の周防国吉敷(よしき)郡
鋳銭司(すせんじ)村字大村で生まれた。
大村で生まれたから、後に大村と名乗ったのである。
村田家は祖父の代から医者の家系で、身分は百姓である。
だから長男の蔵六は村医者のあとをつぐことが決まっていた。

蔵六が二十歳を過ぎてから蘭医学を志したのは、
ただの村医者では終わりたくなかったからだ。
蘭学といえば大阪の緒方洪庵塾(適塾)だということで、
蔵六は適塾に入った。

適塾の高弟にさえなれば、身分に関係なく、
諸藩が百石、二百石で召し抱えてくれる時代になっていた。

蔵六は適塾に入って一年目で、早くも頭角を顕わしたのだが、
このとき塾頭だった村上という人間がおもしろことを言っている。

「語学などというおもしろくない勉強は田舎者に適している。
町育ちの利口者にはとてもやれない。
それに裕福な家庭で大事に育てられた者も、
ごく少数の例外を除いては適合しない」という。

その意味で田舎者で裕福でもない上に無趣味である蔵六は、
塾で学問を学ぶことに適していると言われる。

蔵六は適塾在学中に一年間長崎に留学し、本場の医学を学ぶ。
そして、また大阪に戻った翌年、適塾の塾頭になる。
普通、塾頭になれば、諸藩から高禄で召し抱えられるのだが、
たまたま蔵六にはそういう話がなかった。
そのうち、田舎の父から帰れという手紙が来る。

蔵六は田舎に帰って開業したが、無愛想なうえ、
薬も出さなかったから、患者が全然来なかった。
「薬は効こうがきくまいが、患者の不安を鎮めるという効能があるのだ」と父が言っても、
効きもしない薬を売って金を取るようなことはできない、
という性分なのである。

対人関係が不得意な蔵六の性格を端的に表すエピソードがある。

村の人々が道で蔵六に出会う。
「お暑うございます」と野良をしていた村人が手を休め、
顔の汗を拭いながらあいさつする。
すると蔵六は
「夏は暑いのが当たり前です」と怖い顔で答えるのである。

あるいは別の村人には、
「そうです」と答えた。

そんなことなので、村医としても不人気だった。

しかし、蔵六自身は悪気があるわけではなく、
そういう頭脳をもっている人間なのである。

筆者にも蔵六の気持ちが少しわかる。
「暑いですね」と言われたとき、それをあいさつととらえるより先に、
「暑い」という言葉の意味を考えてしまう。
分析してしまう質なのである。

「暑い→夏だから」という思考が頭を占有し、
その勢いで言葉を発するから「夏だから暑いのです」
という答えになってしまうのだ。

嫁をもらえと薦められるままに、
お琴という村の娘をもらった。

お琴は陽気な嫁だったが、軽いヒステリー体質をもっていた。

平素はとびきり機嫌がいいのだが、突然
「こんな家にこなければよかった」と金切り声をあげる。
ヒステリーは女性の子宮と関係あるらしく、
月に一度はそういうことがある。

そんなとき蔵六は裏の麦畑に逃げる。
二時間でも三時間でも、嫁の機嫌が直るまで、
じっとしゃがんで待っていた。

そんな生活を送っていたある日、
米国海軍の提督ペリーが浦賀に来航し、
攘夷論がふっとうし、
歴史は幕末の風雲期に入っていく。

そうなると時勢に敏感な藩は、
西洋の技術知識をもった人材を捜し始める。

その一つが伊予の宇和島藩である。
適塾の塾頭を務めた蔵六に白羽の矢が当たり、
宇和島藩に召し抱えられるようになった。
百石という高給で、武士の身分を認められた。

蔵六は宇和島藩で医学研究の傍ら、
国産の蒸気船づくりを指導したり、
シーボルトの落とし子、イネに医学を教えたりする。

そのうち幕府からも声がかかり、
幕府が新設した洋学の研究機関である蕃書調所の
教授手伝(助教授)となった。

さらに自身でも鳩居堂という塾を開き、蘭学を教えた。
そのうえ、各藩から近代兵書の翻訳依頼などが次々と舞い込む。
大忙しである。
幕府でもその実力が認められ、幕臣にならないかという話になった。

長州の田舎百姓が天下の幕臣になるというのは大変なことである。
蔵六がこの話を受けていたら、その後の運命は変わっていた。

ところが、そこが蔵六のちょっと変わったところ、
ただの技術屋でないところなのだが、幕臣になるより、
長州藩士になりたかったのだ。
なぜなら故郷が好きだから、としか言いようがない。
ところが、長州藩はなぜか蔵六の存在には無頓着なのだ。
蔵六がカネや名誉を第一に考える人間なら、幕臣になっていただろう。

蔵六は長州藩の若手ですでに一目置かれるようになっていた
桂小五郎に接触した。

蔵六が桂を選び、桂も蔵六に強烈な印象を受けた。
この出会いが、その後の運命を決める。

ただ、桂はしばらくして、蔵六のことを忘れていたのだが、
ある日をきっかけに、
蔵六を長州藩に召し抱えなければと強烈に思うようになる。

それは桂が吉田松陰の埋葬をした日である。

その同じ日に、蔵六が小塚原で死刑囚の解剖をしていた。
師匠の無惨な姿を見て、その帰りに、
凛として女刑囚の解剖を実演している蔵六を見て、ハッとする。

「同郷にあんなすごい人間がいるのに、他藩に渡してしまっていいのか」
と強く思った。

それから、藩内の権力者に対して、
蔵六の登用を熱心に奨めるようになった。



●編集後記

気遣いが不得意な人は
けっこういます。

全然悪気があるわけでなく
誠意をもっていても、

そのせいで
「なんだあいつ」と思われてしまう。

損な性格です。

逆に言えば、そういう人は
別の面で、頭を使っているために
気遣いできないのだから

そこをわかってあげれば
ものすごく貴重な能力を
発揮してくれるかもしれません。

村田蔵六のように。

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posted by タカノリ at 00:33 | Comment(0) | TrackBack(1) | 花神
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